2020年3月マレーシアで活動制限令が開始され、制限令の緩和が進む今日までずっと前線で陣頭指揮をとってきたのは保健省長官のノル・ヒシャム・アブドラ長官です。
在マレーシアの日本人にとっても、細かいことはわからなくともとにかくこの人が先頭でマレーシア政府・市民は頑張っている、、、というような印象を持った人は多いのではないでしょうか。
新型コロナウイルスのパンデミック下で、マレーシア市民の政府への評価は非常に高いという調査も出ています。
就任直後のムヒディン首相や保健省のノル・ヒシャム・アブドラ長官からは、非常に丁寧に国民に状況説明を続け、マレーシア政府の政策を理解してもらおうと継続的に努めていた印象を受けました。
それにしても個人的に驚いたのは、活動制限令が布かれる期間、法令に遵守せず逮捕された人は多く居ましたが、いわゆる暴動・デモのような事件はほぼ皆無だったことです。
私自身はクアラルンプール市内に住んでいて、活動制限令が少し緩和された段階で市中を見ると、経済状況の悪化を痛烈に感じていました。
個人個人で実生活に影響する悪影響が多く起きているはずの状況で、一部の逮捕者などは出つつも、基本的にはマレーシア市民のほとんどが政府の指示に従い、今日のRMCOと言う制限令の緩和状態へと繋がりました。
その過程で、私個人は保健省のノル・ヒシャム・アブドラ長官を”マレーシアの守護者”と本気で思っていたので少し調べてみたのですが、その生い立ちに非常に驚かされました。
なんとなく”毎日見る顔”ではなく、是非皆さんにも知ってほしいこともあったのでこの機会に保健省長官のノル・ヒシャム・アブドラ長官についてちょっとでも知って頂ければと思います。
ノル・ヒシャム・アブドラ長官
幼少期
ノル・ヒシャム・アブドラ長官は、1963年にSepangの中華系の家庭で生まれます。
中華系の家庭で生まれたノル・ヒシャム・アブドラ長官の元の名はYew Ming Seongです。
生後間もなく両親が離婚。
母親に育てられることとなり、しばらくしてPuduに移り住むことになります。
母親は清掃員として働き、幼少期をプドゥで過ごすこととなりました。
当時、彼はMethodist Boys’ School (MBS)の学校に通っていました。
とても運動ができたようで、運動会の日には参加競技のメダルを総取りしてしまう程で、メダルを入れるための袋を持って運動会の日は出校していたようです。
*本人は後列真ん中
その後しばらくの間、母親一人に育てられてきましたが、家庭の経済的な理由により、Ustaz(マレー系の教育者家庭)に引き取られることになります。
教育とキャリアについて
新しいUstazの家族に育てられる中、中等部・高等部教育をKIK、SASで過ごします。
Ustazの家庭環境の中勉強を続け進学、1988年にUKMで医学博士課程を終えることとなります。
教育課程後半はマレーシア国内だけでなく、アデレードやシドニーでも研修を受けていたようです。
1989年よりクアラルンプール大学病院で医師として勤務を開始します。
1994年、外科学の修士も取得していた彼は、トレンガヌ病院で一般外科医として勤務することとなります。
1998年、クアラルンプール病院・内分泌外科の責任者となり、また、2002年にプトラジャヤ病院・内分泌外科の責任者となります。
その後、2008年に保健省副長官、2013年に保健省長官となり現在に至ります。
名前と家族について
本来彼は中華系の家庭で生まれているため、Yew Ming Seongが元々の名でした。
結婚した相手は、育ての親(マレー系Ustaz)の実の娘で、結婚を機に改名。
マレーの名に公式に変更したと言われています。
現在は、4人の息子と2人の娘の父であり、孫もいるおじいちゃんだそうです。
絶大な国民の信頼
対新型コロナウイルスで陣頭指揮を取る中、誕生日を迎えたノル・ヒシャム・アブドラ長官は多くの人にお祝いを受けていました。
個人的に最も印象的だったのがトレンガヌに住んでいる少女から送られた手紙でした。
緊急事態ということもあり、ほぼ毎日のように長官はテレビに出演し、国民に伝わるように丁寧に話をされていたのが印象的で、その毎日のお勤めに対しての少女からの感謝の手紙となっています。
後日、長官はその少女からの手紙に返答をしていて、その内容は、
”One day, it will be your turn to help Malaysia.
Follow your dreams and work hard for it!
Your new friend, Dr. Hisham.”
というものでした。
マレーシアが落ち着いていた理由
多くの人が職を失ったり、お店を閉めなければならないような状態になっていました。
それでも現地にいる感覚として、反政府的なエネルギーが高まったり暴動が起きたりということはありませんでした。
あくまで個人的な見解になりますが、このような状況でも社会が比較的落ち着いていた理由として
困っている時に友人や家族が助け合う社会であること
未知の病気に国民全体が非常に慎重になっていたこと
が挙げられると思いますが、それに加えて
ノル・ヒシャム・アブドラ長官の存在は非常に大きかったと感じています。
貧しい家庭で育ち、経済苦を経験し、自身は中華系の家族に生まれながらマレー系の家族に育てられました。
このことをマレーシア国民は知っていますし、長官本人も国民の苦しみを感じながらの陣頭指揮となっていたように思います。
この数か月は対策本部に出ずっぱりでほとんど休んでいなかったということです。
そういったものを全てひっくるめて、ノル・ヒシャム・アブドラ長官を先頭にマレーシアは乗り越えて行こう、という気運が高まったのではないでしょうか。
現在は活動制限令(MCO)から復興のための制限令(RMCO)移行し、経済活動も概ね再開されています。
市中を見回しても人の動きも活発化してきていますし、雰囲気も大分良くなってきたように思います。
まだ国境問題は残っていますが、一人ひとりが気を付けつつもマレーシアの経済復興が順調に進むことを祈っています。